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朝潮太郎 (3代) : ミニ英和和英辞書
朝潮太郎 (3代)[あさしお たろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning
朝潮 : [あさしお]
 (n) morning tide
: [しお]
 【名詞】 1. tide 2. ebb and flood 3. salt water 4. opportunity 
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 

朝潮太郎 (3代) : ウィキペディア日本語版
朝潮太郎 (3代)[あさしお たろう]

朝潮 太郎(あさしお たろう、1929年(昭和4年)11月13日 - 1988年(昭和63年)10月23日)は、本名・米川 文敏鹿児島県徳之島出身(出生地は兵庫県武庫郡、現在の神戸市)で、高砂部屋に所属していた大相撲第46代横綱。現役時代の体格は身長189cm、体重145kg。得意技は左四つ、寄り。
== 来歴・人物 ==
1948年(昭和23年)10月場所、本名の米川で初土俵。当時奄美は米軍の占領下にあったので兵庫県の親戚、大沢徳城を頼って貨物船に忍び込み密航、奄美が返還されるまで兵庫県(神戸)出身と番付に書かれていた。力士となってから故郷奄美の返還運動にも参加し奄美返還後は鹿児嶋県出身と書かれた。濃い胸毛と太い眉毛で人気だった。東宝映画『日本誕生』に手力男命の役で出演したり、週刊少年マガジン創刊号の表紙も飾った。大阪場所で強く、「大阪太郎」と呼ばれた横綱だった。優勝は5回あるがそのうち4回が大阪(あと1回は九州)、横綱昇進を決めたのも大阪だった。
1951年(昭和26年)1月場所、年6場所制実施(1958年)以前では羽黒山に並ぶ、序ノ口から所要7場所の最速で新入幕を果たす。1952年(昭和27年)9月場所は4日目に羽黒山、9日目に千代の山を初顔で破り、10勝5敗と二桁勝利を挙げて初の殊勲賞を受賞した。翌1953年(昭和28年)1月場所で小結を通り越して新三役(関脇)に昇進して11勝4敗の好成績を挙げ、2回目の殊勲賞を受賞した。入門当初から世話になり積極的に稽古をつけてくれた東富士の引退により1度は低迷して平幕に下がるが1956年(昭和31年)3月場所関脇で12勝3敗の成績で大関若ノ花、平幕の前頭15枚目・若羽黒との決定戦に進出、下馬評は当然大関若ノ花有利だったがこれに勝って初優勝を果たした。これは昭和生まれの力士のはじめての幕内優勝でもあった。
翌5月場所に大関昇進を賭けたが8勝7敗で失敗に終わった。しかし1957年(昭和32年)3月場所は初日から12連勝し、史上初の横綱大関総なめ(同松登と休場した吉葉山を除く)の快挙を成し遂げ、13勝2敗で2回目の優勝を果たし、場所後大関に昇進した。1958年(昭和33年)3月場所も13勝2敗の成績で関脇・琴ヶ濵との決定戦を制して優勝し大阪場所3連覇、大阪太郎の名を定着させた。同年11月場所は14勝1敗の成績で4回目の優勝、1959年(昭和34年)3月場所は優勝こそ逃したが、13勝2敗の好成績で1月場所の11勝4敗という成績は問題視されたが横綱になった。当時、胸毛のある力士は横綱になれない〔稽古を熱心に行えば毛という毛が擦り切れるのであって毛が残っているということは稽古が足りないという意味でこういったジンクスが成り立った。〕というジンクスを見事破った。
しかし横綱昇進以後は腰椎分離症などに悩まされ強弱の差が激しく、強い朝潮と弱い朝潮の2人がいるといわれ、ある時朝潮にいい所なく負けた出羽錦が「今日は強い方の朝潮と当たっちゃった」と言っていた。また休場が多いため「や印の横綱」とまで言われた。その後はしばらく優勝することがなかったが、1961年(昭和36年)3月場所は4日目に栃光に敗れたのを除いて白星を重ね、14日目に大関・琴ヶ濵を押し倒して13勝1敗、14日目に5回目の優勝を決めた。千秋楽は大関・柏戸に上手投げで敗れたものの13勝2敗で再起を果たした。この場所は「弱い朝潮は生まれたばかりの息子をあやすために東京に残って、強い朝潮1人だけが大阪に来た」と言われた。5月場所は初日から3連敗で休場、7月場所は初日から7連勝し、千秋楽に12勝2敗同士で大関・大鵬との相星決戦に臨んだが敗れて12勝3敗。これが最後の光だった。結局素質は戦後最高とまで言われながら連覇も全勝もなく一時代を築けなかった。体を前に小さく屈めて対する鶏追いの型で小兵力士には強く、栃錦には一時期不戦勝も含めて6連勝と健闘し、通算対戦成績も13勝16敗、若乃花はたびたび彼に苦杯を嘗め、通算対戦も16勝17敗(上述の決定戦も含めれば17勝17敗)と互角に闘った。また、大関・若羽黒には21勝3敗と圧倒的に強く、大関・琴ヶ濱にも18勝11敗と勝ち越しており、一時期は7連勝したこともあった。その一方で関脇・鶴ヶ嶺には10勝8敗と苦手にしていた。
1962年(昭和37年)1月場所、番付に名を残しながら同場所前に現役引退を表明。横綱在位数は1961年(昭和36年)までの16場所だった(番付上は17場所)。本来は振分親方となるはずだったが親友である松登の引退の際に名跡を貸していたため当時の一代年寄制度を利用して朝潮のまま親方になる。現役力士から名跡を借りている親方は、本来は名跡の持主が引退すれば返さなければいけないが、松登は年寄名跡がなくこのままでは廃業かと心配していた。この時振分(松登)のもとを訪ね自身は横綱の特権が使えることからそのまま貸し続けることを快諾したという。同年大山髙登)が亡くなり振分親方が大山部屋を継承すると自身は振分を襲名。一時期独立して振分部屋を経営したが後に部屋を閉じて高砂部屋に戻った。
1971年(昭和46年)の4代目高砂(元横綱前田山)が亡くなったことに伴い、5代目高砂となり、高砂部屋を継承し、先代から引き継いだ高見山富士櫻、自分の代に入門した朝潮(現高砂)、小錦水戸泉(現錦戸)らを育てた。
また、1975年(昭和50年)の大関・貴ノ花の初優勝に際し、審判部長として、貴ノ花の兄二子山審判部副部長に優勝旗を授与させるはからいも見せた。
1988年(昭和63年)9月場所中、弟子で西サモア出身の幕内力士だった南海龍が飲酒による素行問題を起こすと(その後南海龍は廃業)、その後間もなくして脳溢血で倒れ緊急入院。しかし意識は戻らないまま、同年10月23日に58歳で急死した。同年行なわれた若乃花還暦土俵入りの際には、「来年は儂の番だ」と自身の還暦(60歳)土俵入りを楽しみにしていたという。ただしこの土俵入りのために他人に見せられる体にするため当時50代後半という高齢に鞭をうちジョギングなどのハードトレーニングをしていたといいこれも急逝の遠因ではないかと指摘する声もある。赤い綱も用意していたが使われることなくお蔵入りとなった。
1995年7月、出身地の徳之島町に銅像が建てられた。2006年12月の徳之島巡業の折には、孫弟子にあたる横綱朝青龍が銅像の前で土俵入りを行っている。夫人ら家族は長野県茅野市でちゃんこ鍋屋「相撲茶屋 よねかわ」を経営。長男は現在テレビプロデューサーをしている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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